読書についての基本的な姿勢を学ぼう~昭和の文芸批評家の言葉より~

こんにちは、くすりやです。
小林秀雄という方をご存じでしょうか?
昭和の時代に活躍した文芸評論家で文芸批評の神様と称された方でもあります。

今回紹介する『読書について』は氏の読むことや書くこと、批評することのエッセイをまとめた1冊になります。
エッセイという形式ということもあって時に痛烈な言い回しもありますが、それ故にストレートに響き、思わず納得してしまう魅力もあります。

本書を通じて文章、ひいては芸術と向き合う姿勢や心構えについて学ぶことができます。

読書について

著者:小林 秀雄
出版社:中央公論新社

今回はその中の『読書』について紹介いたします。
本との向き合い方にお悩みの方は是非ご一読ください!

目次

読書の技術は濫読で養われる

 濫読の外という事が言われるが、こんなに本の出る世の中で、濫読しないのは低能児であろう。濫読による浅薄な知識の堆積というものは、濫読したいという向こう見ずな欲望に燃えている限り、人に害を与えるような力はない。濫読欲も失って了った人が、濫読の害など云々するのもおかしな事だ。それに、僕の経験によると、本が多すぎて困るとこぼす学生は、大概本を中途でやめる癖がある。濫読さえしていない。

読書について より

濫読(らんどく)という言葉をご存じでしょうか?
辞書的な意味は

手あたり次第に書物を読むこと

となります。

ビジネス書でもまずは量をこなそうという教えが散見されますね。
著者は学生時代に学校の登下校時、電車の中、教室、家と場面で区別して数種類の本を並行して本を読み漁っていたそうです。
同じようにできるかと言われてもちょっと難しいかもしれませんね。
数種類とまでは言わなくても私も少し前から同ジャンルの本を2冊並行して読むことにチャレンジしています。
実際にやってみて面白いと思ったのが、同じようなことを言っている箇所があったり、逆のことを言っている箇所があったりと著者の考えが少し見えやすくなった点です。

同じようなことを言っている場合は基本的なことや本質的なことを述べている点が多いので、いわばそのテーマのポイントを抑えられることにあります。
逆のことを言っている場合は解釈が分かれる点ともいえます。
つまり自分の解釈とも比較できる余地があると言えます。
特に後者のケースでは自分がどちらの意見を支持するかと考えたり、あるいは今まで意識していなかった新たな考えを発見でき、結果として自分の応用力を鍛えられます。

もちろん2冊でお終いにするのではなく、また別の本や難易度の高い本に挑戦することで更なる学びにつなげられます。
RPGでいうところの経験値みたいな感覚と言えば分かりやすいかもしれませんね。

読書技術の向上は手あたり次第に書物を読むこと(濫読)で成し遂げられることと言えるでしょう。
そして濫読して得られた知識を定着させるためにはアウトプットも欠かせないことはとても重要なことです。

文はひとなり

 読書の楽しみの厳選にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早い而も確実な方法なのである。

読書について より

本というものは著者の考え、思想、大げさに言えば人間性が凝縮されたものと言えます。
「本」というツールを通じて著者の思いに触れることは読書の醍醐味と言えるでしょう。

この人の本を読んでみよう!

と手をのばす際、往々にして強く宣伝されている代表作、ベストセラーになったものが選ばれることが多いと思います。
しかしそれも著者の一面に過ぎないので、その著者が執筆した他の本を読むことでより深く理解できるようになるでしょう。
もちろん他人の思いを理解するには時間がかかりますし(というより他人を100%理解するということは不可能でしょう)、一筋縄ではいかないものです。
時には繰り返し読むことも必要ですが、それを繰り返すことにより新たな気づきを得られるでしょう。
正に『文は人なり』と言えますね

さて、ここから得られる教訓は対人関係にも応用することができると思います。
初めて一緒になった同僚、クラスメイトの人となりを理解するのはすぐにはできませんよね?
仕事でも学校生活でもその人と同じ時間を過ごし、言動、仕草や態度などを日々観察し、コミュニケーションを取ることで分かっていくと思います。
また、距離が近くなってくると趣味やオフの過ごし方など一緒にいるときとは違う側面を知ることができ、その人がどういう人かということもだんだんと理解できるようになるでしょう。
人間関係の悩みで多くの人が苦しんでいる昨今、相手を理解するというコミュニケーションの根源的な意味を改めて考える必要があるのかもしれません。

余談ですが、SNSの発達により顔の見えない間柄、人間関係の希薄さが危惧されています。しかしその一方で、物理的な距離を(時には国境さえも)超えた交流が行えるのもSNSの素晴らしい魅力だと思います。
私の友人(新郎新婦どちらも)の結婚式で本当にあった話なのですが、披露宴にて年齢層がばらけたテーブルが一つありました(私より5つか6つほど年上の方から女子高生まで!)。
その正体はなんとTwitterで仲良くなった人たちのテーブルだったのです。
しかもリアルでは全員初対面というのですから驚きですが、そんな人たちも友人の結婚式のために集まり祝福したのですからSNSでの交流というのも捨てたものじゃないと今でも忘れられないエピソードでした。

読書の工夫

 読書というものは、こちらが頭を空にしていれば、向うでそれを充たしてくれるというものではない。読書も亦実人生の経験と同じく真実な経験である。絶えず書物というものに読者の心が目覚めて対していなければ、実人生の経験から得る処がない様に、書物からも得る処もない。その意味で小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者も又小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力するのである。この協力間の自覚こそ読書のほんとうの楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべきだと思う。

読書の工夫 より

著者は読書の工夫の必要性について小説を引き合いにして警鐘を鳴らしています。
書物の中でも小説の強い魅力として、読者をその世界観に引き込み自分を忘れさせるところにあるでしょう。
ファンタジーでも、サスペンスでも作品中の人物と自分を重ね合わせて恋愛をしたり、事件を追ういわば疑似体験を通じて楽しめます。
著者はこのような楽しみ方を「他人を装う術」と称していますが、この「他人を装う術」というのは小説を繰り返し読み込むことで深まります。

本書の中に他人を装う術のエピソードとして、死んだふりをする狐が胴体を切断するまで死んだふりをして死んでしまった例を紹介し、本当と嘘との区別がつかなくなってしまっている人に危機感を抱いている一節があります。

例えば実際に恋愛の経験がないにも関わらず、恋愛小説を読み漁ってしまったが故に恋愛の何たるかを知った気になってしまうと、いざ本当に誰かと恋愛をしたときに何が何やら解らなくなってしまうといったギャップに苦しんでしまうでしょう。

今ではギャルゲーや乙女ゲーをやりこんで異性や恋愛に対するイメージが固まってしまって、いざリアルでの恋愛が始まったときに自分が思い描いていた理想とのギャップに困惑してしまうというと分かりやすいでしょうかね?
(そもそもそのリアルでの恋愛に到達するまでのハードルが高すぎるとの声も聞きますが・・・)

人は誰しも大なり小なり願望、すなわち理想を抱いて生きています。
創作物と現実のギャップに辟易しないためには、現実に直面したときに理想を破り捨てるというよりは、理想を具体化したり方向性を再確認するといいのではないかと思います。

また、ここから得られる教訓は、読書を通じて自分の考えと照らし合わせた上で著者の考えを理解しようと努めることが大事であり、読書により自分の考えを失うことではないと言えるでしょう。

まとめ

今回は昭和の偉大なる批評家の言葉から読書と向き合う姿勢や心構えについて紹介いたしました。

・本を読み漁る量を増やすこと
・著者を理解する有効な手段は全集を読むこと
・読書の工夫がないと現実とのギャップに困惑する

今回紹介できませんでしたが、本書は他にも文章や文化について筆者の思いが綴られています。
昔の方のエッセイですが、芸術と向かい合うことについての本質は今でも変わらず通じるものがありますので興味を持たれた方は是非ご一読ください。

今回は以上となります。
それではまた次の記事で!

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